昭和48年10月01日 朝の御理解



 御理解 第46節
 「痛いのが治ったのがありがたいのではない。いつもまめながありがたいのぞ。」

 痛いのが治ったのが有り難いけれども、痛い事も、痒い事も無い程しのおかげ受けておるという事は、もっと有り難い。いうならば、四六時中が有難いという、天地の親神様は有り難い御恩恵を、金光大神のお取次によって、おかげを受けておるのだと、心から分らせて頂くところから、日々が有り難い、勿体ないという信心暮らしの出来るほどにもですが、結局はそういう有り難い、有り難いの生活が出来れる事が、眼目と目指しての信心でなからなければならん。
 願うてもおかげにならん、何か神様がおかげを下さってないような、言い方やら思い方、これでは金光大神のおかげを頂いとるとは言えないわけです。そこんところをよく分らせてもらわねばいかん。今朝、今月の信心、今月も来月もないですけれども、特にどういうところに焦点をおいて、信心の稽古をさして頂いたら良いだろうかと思わして頂いたら、私は今朝から咲く花、名前は何と言いますかね、あの花下から次々とずっと咲いて行く花がありますね。
 あれは何と言う花でしょうか。あの紅いのやら桃色のがありますね。(信者側よりグラジオラスと呼ぶ)グラジオラス、ああそのそうだった。あの花をねまだ固い蕾をつけておるところを頂くんです。ですからもういうならば心の中に喜びの花が咲く、その通り次々と咲いて行くそういう信心、私はそこをひとつ焦点としておかげを頂いて行くようにと思わして頂きまして、教典を開かせて頂きましたら、四十六節を頂きましたから、成程この御理解から頂きますと、痛いのが治った事もやっぱり有難いのです。
 けれども、普通何でもないとき、いわゆる壮健であると言う事は、より有難いものであるという事。ですから、言うといつもが有難いとうい事になってくる。そこにね、信心の工夫がなされなければいけないと思うんです。先日久留米で信心の一夜研修会があった時にも、それが話題になっそうです。信心しよって時々は感動が湧くという、有難くなれるのだけれども、その有難いのが、アッという間に消えてしまう。
 この有難いのをずっと持ち続ける方法はなかろうかと。それは只工夫したり、考えたりだけではね、それは有難くなれません。やはりいよいよその日その日に改まりを心掛けさせてもらい、生き生きとした心で神様へ参り、向かい、そして本心の玉を磨かして頂くという事が、信心だと心がけさして頂いた上にも頂いておかねばというて、もう、ずうっと涙の出る程、感動するとか有難いという事になるならもう、私は昨夜月末の御礼信話会でございましたから、夕べもその事を話した事でしたけどね。
 もうずうっと有難い、有難いというならね、それは気違いになる。問題はその内容がね、本当はいつも壮健なのが有難いんだとこうわからせて頂いておると言う事。ですから何かに触れた時に、ふっとこう有難いのが湧いてくる。何かを聞いた時にいつも、それは普通からいうたら、それは有難くも無い様な事でけも、聞かせて頂いたり、見せて頂いたり、何かに触れる都度々に有難いものがこみ上げてくる。心に湧いてくる。
 もう内容にその有難いものがずうっとあるんです。ところがその内容がいわゆるおかげの頂き足らんような思い方、いつも自分の難儀の事ばかりを考えて折る様な事ではです、有難い事に直面しても、有難いというものが出てこんのです。そこんところを信心しとると、毎日有難うなってくる。信心しとれば一年一年有難うなってくると仰るは、信心の稽古を続けておるから有難うなってくるのです 信心の稽古もせずに、只拝みよる参りよるというだけでは、有難くなるはずはありません。
 それこそ何か変わった事が起きてくるとです、広大なおかげを頂いたというのですけれども、その広大なおかげより、もっと広大なおかげはいつもまめなのが有難いのだとわからせてもらうと言うこと。昨夜もそのことを言っていろいろ話させてもらったんですけども、一月を締めくくって、今月も平穏無事におかげを受けさせて頂いた。いや今月は随分といろんな事があった。平穏無事で今月もおかげを頂いたと言う事も有難い。けども本当に今月は様々な事があった。
 あったけれどもその一つ一つが、神様にお縋りしての一つ一つであった。本当に思うと有難い事づくめであった。有難いもうそれをです、もう心の底から心行くまで、御礼申さして頂く。そしてこの信話会がね、それこめ大祭の時のように、皆集うてきて、今月のいわば御礼のお話をさして頂く時が、いよいよ合楽教会がいわゆる大発展するとだろうねという意味の事を話さして頂いた。
 日々に於いても同じこと、一日を締めくくった時にです、ああ今日もきつい一日だった。又は今月も本当に平穏無事のおかげを頂いた、色々ありましょうけれどもしめくくって、なら御神前に出て御礼申し上げるときにです、もう心の底から、御礼の言えれる心、それはやはりいつも壮健なが有難いのぞというところが、段々分らせて頂かなけれはならない。分っとらなければ、もうああきつかっ、きつかった。今日はろくな事はなかったと言った様な事がです、一日を締め括る様であってはならない。
 それこそ普通でいうなら、ろくなことはなかったと言う中にあてもです、金光大神お取次の働きの中にあっおる事であるから、有難いと分らせて貰わなければいけない。昨日私、午後此処の御祈念を終わって、四時五十分、四時四十分も五十分もありましたでしょうか。丁度お参りをして来た方で蔵の二階を見せてくれという方がありましたから、上野先生に案内してもらって、見ておられた。
 私もおりましたからこちらへ参りましたら、まだお茶も出してなかったから、上野先生にお茶を出して、お茶でも差し上げなさいと言うてお茶を上げて貰った。聡子を抱いて愛子先生が二階に上がっておりますから、下にお茶取りに行くので、その方が私が抱っこしといてあげましょうと言うてこの子供を渡した。そしたら一番上のあそこは何と言うですかね、遊び場というですか一番上にあがっておった所の上にあがっておった。ところがどうした事か取り落とした聡子を。一番上から一番下に落ちた。
 けどもぎゃあと言うてもなきませんでしたが、ああちゅうて優しい泣き方しますもん。からすぐ抱いて行きました。私は下で来とった方にいろいろとお話をさして頂いた事でしたけれども、その方ははじめて参って来とられた方でしたから、こげな事になっとって、親先生はほんとちょいとおよたれまわって、ああどうしたかと言う様な事をなからなければならんのでしょうね。
 普通で言うたらそこで私がいえ、おかげを頂いとりますからと言うて私は部屋の方へおりますから、私はそのままかけてお話を続けさせて頂いたんですけれども、実際それこそかすり傷一つしておりませんでした。それでもやっぱり随分、もう怖かったというか無我夢中であったというか、やっぱりでしょうね、暫くは何かもう怯えたようにしてですね、あの普通とは違ってましたけど、別にこう手足を動かしてみても、頭にちっとばかりこぶが出来とるという程度で本当に神様がね、受けておって下さったんだと。
 桜井先生がいつか高い所から落ちられた時に、何かにづっとこう当たりながらそこでこう丁度神様から、勿論それが一直線に落ちたとなりゃ、もう即死すると言った様な所から落ちられたけれども、おかげでかすり傷もせずに、命拾いさせて頂いた。これが第二お誕生日だと言うて今にその日を大事な日としてお礼に向かう日だとして大事にしとられます。その時に神様が受け止めておって下さったというより言いようがないのです。あそこ十何段ありましょうかね。
 あの梯子あそこをころころと落ちて行っておりますけども、大したことといいますか全然どうもしとらん。一番下の所でうつ伏せになっこうやってしておりました。ですからああ、広大なおかげを頂いたんですけども、広大なおかげを頂いてだけではすまされんよというわけです。だからそう言う様な事がです、その参って来ておる人にもわからせたい。又皆にもわからせたいと言う事が、昨日、信話会の時に若先生に丁度、若先生がお結界奉仕をしとりますから、すぐお届けに来たでしょうから。
 あんたどういう気持ちだったかと、もう本当にすみませんという以外になかったとこう言うております。 だから、そういう例えば、なら、難儀な問題、びっくりする問題が起こった時です本当にその場ですみませんという心ね、ほんなそげんとけ連れて行くけんじゃん、そげなとけ連れて行くからくさいと言うようなものではなくて、只すみませんが、一番心に感じた事だとこう言うておりますが、ああそれも有難い。
 けども私はね、これによってこの人に分らせたい、分って貰いたいという願い、まあいうならばです、お取次を頂いたが最後です、神様がそういう二階の一番上から一番下まで落ちる様な事があっても、こうやって神様は手をすけておって下さる様な、落ち方をしておる事は、そういう神様の御守護の中に、いつもがあるんだと分る。お取次の働きの中に、いろんな事が起こっておるんだ。
 そういう神様の手をすけて下さっておるような、お守りをいつも頂いておるんだと言う事を分らせて頂かねばなりませんというて 只広大なおかげ頂きました。二階から落ちましたけど、傷一つしておりませんでしたと言うだけですんだら、もうそれまでの話。成程、神様がね、表現のしようがなかったら、本当に神様が手をすけておって下さったというより外にない、言いようがないという程しのおかげをです、いつも頂いておるんだということ。そういうお守りの中に、御守護の中にあるんだと言う事。
 それを実感としてです、そう感じさせて頂けれる、そういう事があったその都度にその思いを深くする。こういう特別に信心さして頂いとる信者氏子と呼びかけて下さるわてですけれども、信心さして頂いとる者の上に、一々取次でお願いをさして頂いとる者の上に、こういう御守護の中に起きておる。そこで昨夜私が申しました。例えなら、頭が割れておったとか、手が折れておったとかいう、なら傷をしとったとしてです、同じ事なんだぞという事なんです。
 そういう神様の御守護の中に起きておる事なのだと言う事。例えばそれが死んでも、そうなんだと。だからなら怪我をしとっても、死んでもやはりお礼を申し上げる以外にないということがわかった時にです、一切合切が有難い事だとわかるんです。それに私共がまず、信心のまだ素人のとき、信心がまだ薄いとき、そういう特別な、それこそ神様の手をすけて下さったとしか思えんような、おかげを受けてです、こういう御守護の中にあるんだと言う事が分る。
 そんなら怪我しとりゃ御守護の中でないかというと、そうじゃぁない、御守護の中にあって起きておる事だ。それをここでは、親先生の御祈念、親先生のお祈りの圏内に起きておる事だから、間違いはない事だ、神様の御都合に違いない皆さんが申します。ですから起きてくる、その事の時点でです、有難いいう心が頂けるのが、いつも壮健なのが有難いという事がわかったときなのです。痛いのが治ったので有難いのではない。いつも壮健なのが有難い。いや痛いのが治るというのも有難い。
 医者にもかかった、薬ものんだ、どこの温泉にも行ってみたけれども、治らなかったものがです、医者も止めた、薬も止めて、合楽に一生懸命お参りさせて頂いておったら、このようなおかげを頂いた。だからやっぱり有り難い。医者も薬からも見放されとったものが治ったのですから、有り難いに間違いはない けども、そういう薬を飲まんでもすむ、いうなら、苦い薬を服用せんでもすむ事のおかげを頂いとるときには、もっともっと有り難い事なのだと言う事。
 そこに何かがあった時に、例えば、昨日の聡子の時の出来ごとのようにです、どんなに考えても神様が手をすけて下さったと。昨日私、その事を話しましたけれども、はじめて参った方ですからね、その意味がわからないらしいです。それでいろいろその方が言いわけをされるんですよね。けどもこれは実際信心があるもの、実際そうですから、神様が手をすけて下さったとした思えないようなおかげ、そういうおかげを、そういう落ちるときだけも、そうなのかというとそうではない。
 いつもがそういう御守護の中に、いうならば神様の懐に抱きかかえられておる程しのおかげ頂いとるときの方が、もっと有り難いんだという事を教祖様は説いておられる そういうものがいつも内容にあって、そういう有り難いものが内容にあるから、一寸触れればそこからもう有り難いものが吹き出てくるように湧いてくるのではないでしょうか。グラジオラスじゃないけれども、一つの花がしぼんだらもう、次の花の咲く準備が、咲き次々と、とっぺんまで。
 一生有り難い有り難いという花が咲くようにしておかげの頂けれるものだから、そういうおかげの頂けれるからその内容を頂く事が信心だと言う事になる。ですから言い換えますと、信心とは有り難うならして頂く稽古なのだ。偉うなったのでもなからねば、賢うなるためでもない。とにかく有難うならして頂く稽古。そこを教祖は信心しておれは一年一年有り難うなってくる。
 その有り難い度合いが深まってくるのだ。強うなってくるのだ。それは信心しとればという。それは只、参っとります、拝んどりますでは、そういうわけにはいかん。いよいよ魂を清めるというかね、日々の改まりというか、本気で本心の玉を磨かしてもらう事が信心だとわからしてもろうて、そういう稽古をいわば、たゆまずさして頂いて初めて内容が出来る。有り難いというもでいっぱいになってくる。
 それが何かのいうならば、テレビならテレビを見せて頂きよってもです、例えば悲しい場面があります。そんなら誰だって涙を流します。ところがこれは私の場合ですけれども、悲しい場面の時には一つも感動やら、悲しい思いはしないです。あぁあれは信心があったら、お礼ば申しあげねばならんところに、泣きござると思うから悲しくないです。本当です。そして人が笑うたりです、一つも普通でいうならば、感動する様な所でないところに触れたとき、もうとたんに感動する心が涌いて来る事があります。
 これは新聞見よってもそうです。何かのちょっと記事に触れた時に、もう抑えられん感動が湧いてくる事があります。おかげで内容が段々、有難いものがいっぱいつまってきたからだと思うんです。ですから何かにふれた時にです、そこからもう、有難いものが抑えられとるような感じ。その有難いという心がです、おかげをいうならば、キャッチして行くものであり、おかげの受けものなのですから。
 痛い痒いと言う事が、そういつもかつも、あるものではありません。悲しい苦しいということが、そういつもある事であってはたまりません。けどもそう言う事が、おかげを頂かしてもらい、いうなら、痛いのが治ったのも勿論有難いけれども、いつも壮健なのは、それよりも、もっともっと有難いんだとわからせて頂くところの信心を身につけて行かなければならんと言う事ですよね。
   どうぞ。